POPSジャンルに関しては、全曲持っているABBAやアラベスクの方を先に書こうと思っていたのですが、『シルヴィー、13年ぶりに来日』(2005年3月)というニュースを知って改めて聴き直していたのをきっかけに、このページを先に作ることにしました。 とても既発表曲すべてを聴いたこと有るという訳にはいかないですが、キャリアの長い人。整理してみるとかなりの枚数のレコード・CDを持っていました。 そして、同時期にデビューして同じようにフランスから世界へ飛び出していったフランス・ギャル、一緒にまとめて記しておこうと思います。 (ディスク整理はフランス語独特のアクサンテギュ 、アクサングラーブ 、セディーユ等が多発するため、別ページでフランス語キーボードを使い作成しました。) |
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シルヴィー・バルタン、1944年8月15日生まれ、フランス・ギャル、1947年10月9日生まれ、第二次世界大戦の終結を挟んで誕生した二人の女性シンガー。音楽がポピュラー化して世界を跨ぐように成りだした頃、ほぼ同時期に10代でデビュー。 (S.バルタン-1961年、F.ギャル-1963年) シルヴィーの方は幼い頃に苦労したようです。生まれたのはブルガリアに有るイスクレッツという町、生後ひと月ほどでドイツ軍と戦うための基地として進入してきたソ連の軍隊に一家の家を取り上げられてしまい、ソフィアへ引っ越し。この街で8歳まで過ごしたのですが、ブルガリアの独裁的な共産党支配に嫌気をさしていた両親はフランスへの移住を決意、兄のエディー(のち、シルヴィーの音楽界デビューに一役かっています)を含めた4人でパリへ移りました。学校では、フランス語を話せない彼女は最初かなりいじめに遭ったそうです。デビュー後は彼女の努力も有りフランス人で最も世界に名を馳せたポピュラーシンガーと成りました。(ベルリンの壁崩壊に続き50年ぶりに共産党支配を離れたブルガリア、シルヴィーは故郷、ソフィアの街で1990年10月6日に錦を飾るコンサートを行っています。) 一方、イザベル(フランス・ギャルの本名)は音楽界に身を置く家系という環境の元、パリで生まれ幼い頃から大歌手達に可愛がられて、成るべくして歌手になり恵まれたスタッフの中、僅か二年あまりでトップアイドルの座に。 しかし、20歳を過ぎた頃から、こうした大人達の手で作られたアイドル歌手という自分自身を否定し出したのですが(有名な「Les sucettes〜アニーとボンボン」問題など)、ひとりの人間として悩みを乗り越えて女性として魅力的に成ったのはこの頃からでしょう。 「フランス人形みたいに可愛い子」と言われていた彼女の30代の写真を見ると、とても素敵な顔をしています。同時期のシルヴィーが近寄りがたいような高貴な美しさを持っていたのに対しフランス・ギャルの美しさは恋と愛情に包まれた女性が自然に発する優しい美しさだったように思えます。 しかし、出直し後、公私ともに最良のパートナーであったミッシェル・ベルジェと死に別れ、娘さんも病で亡くし、自らも乳ガンと闘う身体に成ってからは公の場から身を引かれたようです。 わたしが子供時代に意味(訳)を含めて憶えた最初のフランス語はbonjour-ボンジューゥでもmerci-メルシでもなく、 Il a marché le long des rues というシルヴィーの「ジョニーはどこに」の歌い出しであり Nous ne sommes pas des anges というフランス・ギャルの「天使のためいき」の歌い出しでありました。 60年代後半は映画・ファッションなど日本に入って来てヒットするのはアメリカよりヨーロッパの物の方が多かったように思えます。 ファッションの発信地はパリ・ロンドン・ミラノ、ヒットする映画はフランス映画やイタリア映画。わたしの一番好きな俳優、アラン・ドロンは勿論フランスの美男子。ポピュラー音楽の分野でも多くのヨーロッパ産ヒット曲が日本でもヒットして いました。 それが60年代後半〜70年代初等に入り映画の方で「俺たちに明日はない」「イージーライダー」などアメリカンニューシネマのヒット、ファッションでもラルフ・ローレンの出現以降から徐々にアメリカが文化の主導権を握って行ったように感じます。 音楽の方だけはビートルズ以降、アメリカンルーツの音楽(素材)を、上手く調理して紹介し続けたイギリスが十年以上に渡り中心と成りましたが、中央ヨーロッパの曲で日本に紹介される物はうんと減り、ギャルは70年代前半、バルタンも80年代早々には一時期聴かなくなりました。 時代は過ぎて、再びフランスの音楽が発売されるように成ったり旧譜が再発されるように成ったのは、アナログからCDへと完全移行した80年代後半から90年代かかり、輸入盤を扱う外資系の大型CDショップがいくつも出来て、英米以外の輸入盤CDを置くコーナーを設置しだしたのが始まり(きっかけ)だと言われています。渋谷を中心に関西(大阪・神戸)にも何店が出来て英・米・日本未発売盤のヨーロッパ・南米音源などが海外通販を利用しなくても買いやすく成り、再注目されるように成りました。 ただ、当時フランス・ギャルの方は大型店舗に数種は常に置いてありましたが、シルヴィーの方は、なかなかこういった大型輸入ショップにも仏盤は置かれて居なくて、小規模ながらも独自の品揃えで輸入している単独店舗にポツンと置かれて居た程度でした。(今尚、そうですが) ボサノヴァ・ジャズ系の音楽が主で売れ出したのを思うと、フランス・ギャル初期の曲には確かにジャズアレンジの曲が数曲有り、シルヴィーより、フランス・ギャルの方が注目を浴びたのは納得できます。 ふたりの有名な曲の大半はヒット曲を連発していた60年代の物ですが、原題と邦題との意味が全く違うのもあり、邦題で覚えてしまうと輸入盤ショップで内容を把握できなく、自然と原題で覚えて行くように成りました。下は有名曲一部の原題と邦題です。
70年代に入り、ギャルの方は『アイドル・スター』という立場への反動か意識的に歌おうとはしなかったのですが、ヴァルタンの方は本国ではずっと歌い続けていましたし、日本でも数年置きにLes hommes(悲しみの兵士)、Caro Mozart(哀しみのシンフォニー)、Disco queen(ディスコ・クィーン)とヒット曲を出してきました。 特にLes hommes、Caro Mozartはヨーロッパ独特の哀愁を帯びたメロディーで日本だけで大ヒット。やがて、フランス・ショービジネス界中心に活動の場を移したシルヴィーに日本でのヒット曲は無くなりましたが、大人のシャンソン歌手として歌い続ける彼女の姿は時々紹介され続け、昔の曲がCM等に使われ数回リバイバルヒットしています。 わたしも80年代の中抜けは有りますが、90年代以降、再び彼女のCDを気にかけて、見つけたときには買うようにしていました(でも買いそびれると廃盤に成るのは早い早い)。ポップスやロックを取り混ぜて歌うライブ盤とシャンソン主体のスタジオ盤という違いがはっきりした発表ですが、どちらもそれぞれに好きですね。 一方、フランス・ギャルの方は一時の休止状態から、75年にワーナーからの再デビュー盤(当時はLP)が発売されて話題に成りましたが、わたしとしてはガッカリというのが当時の感想でそのLPは買わず終いでした。77年に出た「Dancing disco」も日本盤のモノクロジャケットは良かった物のやはりガッカリでした。(後にCDで買いましたが、この2枚に関しての感想は今も同じです)適度にアメリカンナイズされていながらも、サウンド自体はユーロディスコタイプの物が多くて軽さを否めません。イザベルが敬愛したミッシェル・ベルジェには悪いのですが、この時代、他にもっと心動かされる音楽がいっぱい溢れていた70年代でした。(21世紀に突入して数年、依然売れている音楽CDが70年代、80年代の再発物だということは、その時代に良い音楽が溢れていたということでしょう) ただ、後に思ったことですが、当時のイザベルにとってインパクトの有る世界を惹き付けるレコードを製作することよりも、愛する人と一緒に彼の曲を歌うことが一番したかったことであり幸せな事だったのでしょう。 70年代後半から90年代初め、彼女はかなり積極的にコンサートを繰り返しています。そしてライブ音源としてのCDも本国ではかなり発売されています。わたしとしてはスタジオ盤より、ライブ盤の方が確実に好きです。ユーロディスコ的な音の味付けは少なく、ずっしりと重たい聴き応え有るサウンドが多く収録されています。 特に93年のライブはロック色が強く大好きですね。ベルジェの死後という事もあり彼の名はプロデューサー名の中には見あたりません---そのことがロック色を強くしたのでしょう。 アイドル時代と恋する女に成ってからの音楽は全く違う製作意識で作られていて、彼女自身は自らの60年代の音楽を70年以降、否定し続け、別人扱いしていますが、現在も再発され続けているのは本国でも他国でもアイドル時代の物が中心。 夢多き少女のひたむきさや純粋さは時代を超えて人を惹き付けるものだし、フランス・ギャルはその部分が特別に魅力的だったと言うことはやっぱり彼女の持ち味でしょうし宝でしょう。いつかまた、彼女も「Poupée de cire, Poupée de son」と口ずさむ日が来るかも知れないでしょう。 |
追記: フランスの『Culture Factory』というレーベルから、シルヴィーのRCA時代発売LPのCD化による復刻盤がj紙ジャケット仕様にて2012年6月頃から始まった様です。 '70年代後半の彼女のアルバムは今までCD化されなかった物もかなり有りますので順次購入していくつもりなのですが、予定として数年かけて数十枚を超えるアルバムをリマスターして発売するらしいとの事。(いくつかは輸入盤仕様のまま日本語解説をつけて日本盤として発売され出しました) 持っている物は除くとしても回せる予算の都合、全部を買い切れないかもしれません。CDが売れなくなった時代ですので、生産枚数は限られているでしょうし、後回しにしていたら買いそびれる物も出てくるでしょう。 徐々に入手してリストアップページに載せていこうと思っています。 シルヴィーがRCAに吹き込んでいたのは1986年くらい迄で、わたしの調べた範囲ではオリジナル盤として25〜26枚ほどのLPアルバムしか分かりませんでした。それが今回は40枚近いタイトルが紙ジャケ仕様で復刻と書かれた記事を読みました(30を40と読み間違い、記憶違いをしたのでしょうか?)。仮に30種としてもオリジナル盤の数と合わないので、LP時代の編集物・ベスト盤も当時の仕様で復刻されるのかも知れません。 |
追記2: フランス・ギヤルが2018年1月7日に亡くなっていました。`60年代アイドル歌手としての絶頂期に"Les sucettes (アニーとボンボン)"ヒット後の少し後に一旦人間不信の状態に陥り、その後ミッシェル・ベルジェと出逢い大人の歌手として再出発。自身が納得のいく状態で作品発表を続けていましたが、`96年に発売されたアルバム以降新作録音盤が出ていませんでした。記事によると乳がんが見つかり闘病生活に入っていたためでした。そして長きに渡る闘病生活の末に力尽きたという事でした。「癌」という病い、ホントに憎っく気病魔です。悲しい・・・ シルヴィー・バルタンの紙ジャケット復刻CDですが、長きに渡り買いそろえ、遂に所持枚数が44枚に成りました。これだけの毎数が復刻されるアーティストという事自体が彼女の偉大さが伺えます。 また、原題と邦題の対比曲数を改めて増やしました。 一応日本でも知れている曲中心で選びましたが、殆どが1960〜70年代楽曲で少しだけ1980年代の物も入っています(それぞれ二曲ずつ)。邦題自体が日本盤が発売されないと存在しませんので、そこら辺は80年代に入ると徐々に英米の音楽が中心に成って行った時代背景がハッキリと判ります。
※シルヴィー・バルタンの"Petit rainbow"はベイ・シティ・ローラーズの"太陽の中の恋"のフランス語ヴァージョン。 ※フランス・ギャルの"Les Yeux Bleus(青い瞳が恋してる)" は再発時に"青い瞳に恋してる"に邦題が変えられた。 |